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悪意が無いのだから責められるべきではない

“私には悪意が無いのだから、責められるべきではない”。悪意の有無が、事の善悪を判断する基準であるべきであると強く信じている人が多いように感じている。日本は法治国家であり、法律が定められている。ある事柄が合法か否かに関して、悪意の有無は関係がない。

この記事では、人々が法律ではなく悪意の有無で物事の善悪を判断していることに関して記載する。

善悪は相対的である

冒頭で偉そうに法律がどうこう記載したが、私は法律の専門家ではない。この記事で書きたいのは、単なる愚痴である。その愚痴を、論文やデータの裏付けもなくそれらしい理由で肯定したい。それがこの記事である。

善悪は相対的である。ある人にとって善であることは、他の人にとっては悪であることもある。キリスト教徒にとって、キリスト教徒ではないことそのものが悪であるが、キリスト教徒ではない私はそれを悪だとは思っていない (善だとも思っていないが)。

善悪は相対的で、絶対的ではない。例えそれが、同じ文化を共有する同じ民族間であってもだ。

子供のすることなのだから

前回、親が子供を躾けないことに関して記載した。レストランで子供が泣き喚こうが走り回ろうが、親はそれを辞めさせない。その理由としてよく見かけるのが、”子供のすることなのだから仕方がない”、”子供は泣くのが仕事”、”それを受け入れない周りがおかしい”、である。子供といっても、読む人によって感覚の差があるので、ここでは一旦未就学児を意味するものとする。

子供が泣くのは仕方がない。これはこの通りだろう。それは問題ではない。問題は、それに対して何もしない親なのだ。泣くのが仕方がないことであっても、子供を物理的にその場から遠ざけない理由にはならない。そして昔はそうしていたであろう。これは今の親も知っているはずである。しかし、今の親は何故か泣いている子供を連れて一旦外に出るなりすることはほぼ無くなった。何故か。

子供が泣くのに悪意はない。悪意がないのだから、それは咎められるべきではないのだ。こう思っている、若しくはこれが正当な理由になると思っている親が多いと思っている。私はガールズちゃんねるが好きでよく見ているが、これを理由とする親と思われるユーザのコメントは多い。子供が泣く際に、私も子供には悪意がないと思う (一部、親の注意を惹くためにわざと泣く子供もいるが、これは親も分かるだろうし、分かっている場合は親もそれに悪意がないとは思っていないだろう)。ただ、私は腹が立つ。子供に対してではない。その子供の親に対してである。泣く子供に悪意はないだろうが、その状況をどうにかしない親に私は悪意を感じている (親が私に対して悪意があるかどうかは別である)。

特定の教育方法に対する盲信

私は、親のこういった行動の理由を理解しようと色々調べてきた。振る舞えない子供に対して何もしない親は、何をどう思ってその状況をそのままにしているのだろうか。それが一番気になるのである。

調べるうちに、”叱らない教育”やら”タイムアウト法”やら、なんでそんなものを真に受けるか理解に苦しむようなものが蔓延っているのは理解している。しかし、何故それらを子供の教育として良いものであると判断しているのかが理解できていない。そして、親はどこからそれを学んでいるのか。子供ができた際に、市役所や病院で言われるのか、はたまた自分で本を読んだりネットで調べているのか。ここが分かっていない。

一番不思議なのは、親はそういった教育で育っていないであろう点である。にも関わらず、それらを盲信してやまないのだ。子供が大切であれば、それが子供にとって有効であるかどうかは自分で確かめると思う。英語が話せる方が良いと思うなら、まず自分が実際そうなのか試してみるべきである。自分で試していないものを、どうして子供で試せるのだろうか。二言目には、子供のため、子供のため、と連呼する割に、子供のことを思っている様には思えない。

にも関わらずグローバル化を望む

所謂”叱らない教育”であるが、これはとんでもない教育だと思っている。これが親に受ける理由に、”子供を叱って子供に嫌われたくない”、”子供と仲良しでいたい”、”私は親に叱られて嫌だった”、など色々な意見を見かけるが、自分が子供だった頃を忘れてしまったのだろうかと心配する。子供は、親を友達として見ることなど無い。友達は、友達がなれる。親には、親しかなれない。仮に親が友達になるなら、親には誰がなるつもりなのだろうか。

日本に帰ってきて驚いたのは、米国における子供への躾さと日本のそれとの差である。雲泥の差である。基本的に、日本の方がそういったものに対して常に米国よりも厳しいと思っていたし、昔からそうだったと思う。しかしどうだろう。少なくとも今は逆転している。米国の子供は、親にふざけた態度は取れない。怖いからだ。日本の子供はどうだ。舐め腐っている。それでどう親であろうと思っているのだろうか。

一番の皮肉は、それにも関わらず社会がグローバル化することを望んでいるようであるところである。親にも躾けられず、したいことをしたい、したいのだからできるべきだと思っている、それが叶わない場合に泣いても何も言われない子供と、したいことでもできないこともあると躾けられている子供とが競争するのがグローバル化した社会である。それこそ、弱肉強食の世界である。物理的な力で自分の思う方向に人を動かす人すらが存在し、それに物理的な力で対処しながら知性でも運動でも勝らなければならない、それがグルーバル化した社会なのだ。自分の子供が、そんな社会で生き抜けると思っているのだろうか。

恐らく、根底にはとんでもない差別意識があり、日本に来る外国人は日本人の元で働くと想像しているのだろう。しかし現実は逆だろう。それを望むとは、子供のことを思っているとは到底思えない。

結論

特になし。愚痴に付き合っていただき、ありがとうございます。