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車生活になって

移動の際に車のみを使うようになって二年ほど経過した。

この記事では、そうなった後に気づいたことを記す。

港区は渋滞せず

そもそも車のみで生活するようになる前にも、車には乗っていた。所有はしていなかったが、タイムズカーシェアを相当活用していた。タイムズカーシェアに月5万円程使うようになり、これはもう車を買った方が安く済むのではと思いそうした経緯がある。

タイムズカーシェアを利用していた頃、私は港区に住んでいた。近くにタイムズカーシェアの車が複数箇所にあったため、これが非常に便利だった。当時は6pm以降であればその日ずっと借りていても2500円くらいだったと記憶しているが、これがとても金銭的にも時間的にも良かった。このプランを利用して、仕事の後にショッピングモールに行ったり横浜に行ったりしていた。

その時には気づかなかったが、港区は渋滞しないのである。勿論、局所的な渋滞はある。麻布十番の新一橋の交差点や、そこから六本木ヒルズに向かう道は混むこともある。しかし、基本的には渋滞はない。単純に車線が多いのもあるが、今思えば人も少なく行き交う車は殆どタクシーで、とろとろ走っている車が少ない。

しかし、世田谷区はめちゃくちゃに渋滞する。しかも常に渋滞している。港区に住んでいた頃は、そこでも渋滞具合が日本における車の渋滞具合だと思っていたので、世田谷区に引っ越した時にとても驚いた。東京でも区が変わるとここまで渋滞するのだと。世田谷区の渋滞は、LAにも劣らない。しかもたちが悪く、とろとろ走る車が多いが故の渋滞なのだ。先が空いているのが見えているのに、目の前の車がクソほど遅く、尚且つ一車線が故に抜かすこともできずにとろとろ付いていくしかないが故の渋滞だ。

“AIによる自動運転が主流になったら、馬鹿正直に制限速度を守るのだろうか。もしそうなら、ここの制限速度は40kmのところが多いからどうなってしまうのか今から心配だ。”、という書き込みを以前Hacker Newsで見かけた。イタリアの話だった。私はそれを見て虚無になった。もうそれは日本では起きていると。そしてそれはAIによるものでもなんでもなく、人間によってもたされていると。世田谷区の渋滞は、イタリアの人が憂う様な状態なのだ。

しかも、馬鹿正直に制限速度を守っているからとろとろ運転している訳でもないのも分かってきた。とろとろ走る癖に、決して安全運転ではない。黄色当然赤勝負で信号を進行するし、歩行者がいても停まらない。車線は平気で跨ぐし、停車線も随分とはみ出る。こうした運転手の顔をずっと観察しているが、必ずしも老人ではないのだ。むしろ若者の方が多いくらいなのだ。信じられない限りである。 

車のみで移動するようになり、私は相当イライラするようになった。目の前でカスみたいな速度で運転し、私の移動をそれに巻き込む。一体どんな権利があってそんなことができると思っているのか、もう考えるのも辞めた。

トラックばかり

走行している車の種類も全然違う。港区では半分くらいがタクシーだが、世田谷ではクソでかいトラックが多い。LAでは、大きいトラックは住宅地を走行してはいけない法になっているが (安全のため)、ここでは車幅が車線ぎりぎりのトラックがめちゃくちゃ走っている。なんなら、車線をはみ出すしかない道路 (しかもその車線は黄色) をバスが当たり前のように走行している。これはもう、営利企業が犯罪を犯すことをどうどうと公に宣言しているのであり、どういう倫理観でそれを運用しているのか不思議でならない。

首都高になると、トラックはより増える。もう半分以上がトラックではないか。しかし、これには私も原因となっている。オンラインで物を頼むと、当然物の移動が発生する。私もここ何年かでオンラインで物を買う機会が増えて、首都高におけるトラックの数の増加には貢献しているはずである。

駐車場に停めない

これは港区でも同じなのだが、違法に路上駐車する車が非常に多い。目の前に駐車場があっても、絶対に駐車場に停めない。まだ縁石が黄色の波線で荷下ろしをする場合であれば停車は合法だが、そういう話ではない。平気で駐車している。しかも、高い車に乗っている人でもそうなのだ。私はお金がもったいないから路上駐車しているのかと思っていたが、それよりも自分のわがままの優先なのが分かってきた。そこのお店に行きたいからここに停めて何が悪い、と本当に思っているのだ。

警察もなぜか全然それを捕まえない。平気で横を通り過ぎる。

結論

東京では車はいらないと良く見かけるが、東京でも当然車はあった方が便利である。しかし、その状況はLAとは全く異なり、車の運転に関するイライラが異常に増えた。車の方が早く目的地に到達できるかどうかが車を使うか否かの判断基準になるのではなく、このイライラを受け入れられるかがその判断基準になっている。